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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数23年の白鳥麗子さんの体験記。発病した当時は「重度の貧血」と説明され骨髄移植を受けた。化学療法、インターフェロンα、分子標的治療薬などの治療を経て、現在はほぼ奏効。CMLと知らないまま治療する心境や不安にどう向き合い、どのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

    白鳥 麗子 さん

    白鳥 麗子 さん

    CML発症後年数:23年
    大学生のときに発病。当時はまだ告知が一般的ではない時代。「重度の貧血」と説明され、妹さんがドナーとなり骨髄移植を受けた。正式な病名を告げられないままのつらい治療が耐えられなかった、と振り返る。化学療法、インターフェロンα、分子標的治療薬などあらゆる治療を経て、現在はほぼ寛解。法曹になるという志を立て、資格取得のため勉強中。
    (2014年7月取材)

    取材者より

    つらい経験をしてきたことなんて全く感じさせないほど明るく、キラキラした笑顔を振りまく白鳥さん。
    けれど、20年近くの歳月を闘病生活に費やしてきた過去を、「決してきれいごとではない」と語る姿は、長くつらかった闘病経験を物語ります。絶え間なく襲ってくる身体の不調、あきらめなければならなかった夢・・・。
    講演活動などを通し、自分の思いを発信し続ける姿に、可憐ななかに芯の強さを感じる、女性からみてもとても素敵な女性でした。

    CMLを発症したのは、大学に在籍しているときでした。ちょうどアメリカへの短期留学から帰国したばかりのころです。心理学を勉強したかったので、「今度は本格的に留学しよう」と資料を取り寄せたりしていました。大学生活も楽しく、アルバイトやバンド活動など、充実した毎日を送っていました。一方、モデルの仕事が舞い込み、CM出演の依頼をいただくなど、まさに夢と希望にあふれた「花の女子大生」でした。
    ひどい疲労感に見舞われるようになったのはそんな頃だったでしょうか。「もともと貧血気味で虚弱体質だし」「それくらいがか弱くて女性らしいわ」、なんて今思えば愚かな考えも浮かぶほどで、さほど気にとめなかったのですが、お腹が張って痛み、腕にしこりのようなものができるとさすがに母が心配し始めました。
    病院で血液検査を受けたあと、すぐ呼び出しの電話がかかってきました。
    再受診したところ、血小板の数値が200万個/μlを超え、脾臓もおへその位置まで腫れているというのです。「ここまで腫れていたら物も食べられないでしょう」と言われましたが、むしろ食欲はあり、「いつも満腹だからお腹が張っているのかなと思っていました~」とおどけて言ったのに、先生はクスリとも笑わなかったことを覚えています。
    告げられた病名は「再生不良性貧血」。先生からは、「貧血がひどいのですぐに入院が必要です」と言われました。ひとまず私はいったん家に帰って準備をしたいと言ったら、家まで歩いて10分だというのに、頑なに帰ってはいけないと止められたことに衝撃を受けました。
    すると、「お母さんに入院の説明をしたいので麗子さんはあちらで待っていましょうね」と、看護師さんに部屋から遠い場所へ連れて行かれ、まるで映画のワンシーンのような展開となったので、思いきり不安になりました。
    後から知ったことですが、このとき母は「慢性骨髄性白血病の疑いが強い」「かなり進行しているので、できるだけ好きなことをさせてあげてください」と先生から言われていたそうです。
    そして、あれよあれよという間に、たくさんの先生たちに囲まれて、痛みを伴う骨髄穿刺による検査が行われ、その日からインターフェロンαによる治療が始まりました。
    正直、おかしいな、という思いはありました。検査入院と聞かされていたのに、治療は始まってしまうし、薬の副作用はひどいし、看護助手さんは病室に来ては花を飾ってくれたり、異常に親切にしてくれたり。
    「本当に貧血がひどいだけなのだろうか……」
    どんどん不安が募りました。

    入院しているイメージ

    本当の病名を告げられないままのつらい治療

    それから間もなく、本当の病名を告げられないまま、骨髄移植をすることになり、家族全員HLA適合検査を受けました。ちょうどその年の年末に骨髄バンクが設立されましたが、登録などの実質的な稼働はまだされていなかったので、この頃は親族間での移植しか行われていませんでした。検査の結果、妹とHLAの型が合うことがわかり、ドナーになってもらうことになりました。
    移植は副作用や合併症との闘いでした。しかし何より耐えられなかったことは、前処置で髪が抜けてしまったこと――。私は幼いころから、ひと一倍髪へのこだわりが強い性格ではありましたが、そうでなくても20代の女性にとって髪を失うことはたまらなくつらいものです。一時的なものなら我慢できたかもしれませんが、移植が終わった後もなかなか元通りに生えそろわず、長いこと精神的に苦しむことになりました。
    ちょうどその移植前の一時退院のときに化粧品会社のモデルの仕事をさせていただく機会がありました。スタッフの方々から「待っているから頑張って治療してきて」と応援していただき、また元気になったらお仕事をさせていただけることを励みに治療に耐えていました。しかし実際には、移植後も元通りには髪が生えそろわず、再びそのお仕事をすることはありませんでした。
    移植後しばらくは、吐き気や口内炎がひどく、無菌室で寝たり起きたりの生活でした。
    両親は交代でずっと付き添ってくれました。当時、無菌室は医療関係者以外立ち入り禁止でしたので、あくまでガラス越しの面会です。でも、両親はひとときもその場を立ち去ろうとせず、とくに母は心配だったようで、絶えず私を見つめ続けているのです。
    たまらなくなって、思わず「そんな目でみないで」と口走りそうになりました。ただ、母の気持ちは痛いほど伝わってきましたし、自分が母を苦しめていると思うと、何も言えませんでした。
    しばらくして退院して体調が戻ると、移植から1年後に大学に戻ることができたのですが、やはり見た目の変化に対する周囲の目を気にしないわけにはいきませんでした。周りはみな若い女性。当然のように髪や身なりを綺麗にしている中、私はつねに帽子をかぶり、どうにか髪が薄い姿を見られないようにと、必死で隠す毎日・・・。「こんな思いをするのなら、死んでしまったほうが良かった・・・」と思うほどつらくてたまりませんでした。私にとっては、髪を失うことは死ぬよりつらいことなのです。
    たしかに、移植を希望しても受けることができなかった患者さんにとってみれば、私は恵まれていたと思います。命が助かったのに、そんな髪の毛のことなど何を言っているんだ、と言われることもありました。もちろん、治療を受け、助かることができたのはたくさんの周りの方々のおかげですし、心から感謝しています。しかし、どれだけつらいか、どのようにつらいかは患者本人にしかわかりません。「患者」になった途端に、髪を失ったことを嘆くことすら不謹慎ととらえられてしまうことに、とてもやりきれない思いでいっぱいでした。

    「麗子ちゃんはまだ若いし、ドナーにも恵まれて、本当に幸運ね」。骨髄移植を終えた私を、周りの人々はそう慰めてくれました。でも、それは合併症や薬の副作用と必死に闘っている最中だけに、やりきれない言葉でもありました。
    若い私にとって、突然の発病や20代、30代の青春時代を奪われたことは、とても理不尽なことに思えました。そんな自分が幸運の持ち主だ、とはとても思えなかったのです。しかも、移植して1年以上経っても、本当の病名を誰も告げてはくれません。
    その当時、CMLは移植をしなければ急性転化し、命を落とす不治の病でした。ですから、「白血病」という病名のインパクトもあり、患者に対して告知をすることが少なかったのです。とうとうある日、我慢ができなくなり親しくしていた骨髄バンク運動のメンバーの方に思いのたけをぶつけてしまったことがありました。精神的に限界に達していたのだと思います。百貨店地下の喫茶コーナーで、号泣してしまったことをよく覚えています。でも結局、その方の取り成しで、主治医の先生に告知していただくことができました。
    それまでは、皆、なかなか口を割りませんでした。父親に、一度車の中でちょうどラジオで「告知」の問題が放送されていたとき、その流れで「私も告知される立場だったら教えてほしいなぁ。」とそれとなく切り出したのですが、うまいことはぐらかされてしまいました。
    そこで、業を煮やした私は、次に妹にカマをかけることにしました。
    「ねえ、私って白血病だったんだってね。あなた、知ってたの?」。
    すると、妹は「聞いていたけど……」。
    すかさず「やっぱり、白血病だったんだ!」と突っ込んだら、「お姉ちゃん、ひどいよ…!」と(笑)。妹にはかわいそうなことをしたなあ、と今では懐かしく思います。

    妹と話すイメージ

    骨髄移植を受けて2年後、病気は再発してしまいました。当時日本では始まったばかりのドナーリンパ球輸注を試み、その後再び骨髄移植を行いました。しかし、いずれも合併症で肝機能が悪くなったり、顔や全身がケロイド状に黒くなったり、肺炎を繰り返したりと何度も命の危険に直面するほど経過は芳しくありませんでした。
    そんな状態も落ち着いてきて、二度目の移植から1年経ったころ、なんとまた再発してしまったのです。呪われているとしか思えませんでした。
    再び骨髄移植をするしかありませんでしたが、私にとってはもう限界でしたので、拒んで他のさまざまな治療を試みているうちに分子標的治療薬が登場しました。結果として、インターフェロンαだけでなく、化学療法、分子標的治療薬など、あらゆるCML治療を受けることとなったのです。
    私はどの治療を受けても、主治医が気の毒がるくらい副作用ばかりが強く出て、治療を続けるのは本当につらかったです。薬が病気に効いていても、その実感は得にくいものです。でも、副作用ははっきりわかりますから
    何度も再発を繰り返しては、治療とひどい副作用との闘い――まるで生きるために治療を受けるのではなく、治療を受けるために生きているのではないか、と思うほどでした。
    それでも必死の思いで治療を続け、CMLと闘うことができたのは、共通する病気の仲間がいたおかげかもしれません。
    私たちは独特の一体感で結ばれていたように思います。
    病気や治療法についての情報をやり取りし合えるのは、とてもありがたかったです。それだけではありません。元気な友だちにはわかってもらえないこと――大学に通えないやりきれなさ、体調が良くなっているのに、社会に出られないもどかしさなど――同じ病気、悩みを抱えている者同士、わかりあえることがたくさんあったのです。
    みんな仲がよく、退院した人が外来受診する日などはそれこそ大騒ぎでした。内輪でちょっとしたパーティーをするのですが、「本当は怒られるんだけど……」なんて言いながら看護師さんも協力してくれて、こっそりピザを裏口で受け取ってくれました。「乾杯!」とぶつけあうのは、お茶の入ったカップでしたけれど。退院した人は自分のカップがないので、採尿用の紙カップを看護師さんからもらって飲む、なんていう一幕もありましたっけ。
    振り返ると、病気になったことは不運だったけれど、人には本当に恵まれたと思いますね。今でも、患者仲間の存在が大きな心の支えになっています。

    共通する病気の仲間と話すイメージ

    2001年に分子標的治療薬による治療が始まり、副作用が少ないということで期待をしていました。しかし白血病によく効いてくれた一方で、副作用も強く出てしまったので、減量という方法をとったところ、今度は白血病を抑えきれなくなってしまいました。もう何をしてもうまくいかず、すべて終わりになってくれないかな、と思っていたそんな矢先の2006年、新しい分子標的治療薬の治験を受けることとなりました。やはり副作用はありましたが、頑張って一定の治験期間を終え、「寛解」と言える状態に達することができました。
    分子標的治療薬によって症状をコントロールできるようになったころ、法律の道を歩もうと、ロースクールに入学しました。目指したきっかけとしては、法律家である父親の影響もあるかもしれませんが、20代にやりたいことにチャレンジできなかったその悔しさもあり法律という未知のジャンルに挑戦してみたかったのです。
    また、大学時代はほとんど通学できず、復学して卒業したものの、ろくに学生生活を謳歌できなかった、という心残りもエンジンになったかもしれません。
    ただ、ロースクールに通い始めて、病気の事実を周りに伝えることについては、けっこう悩みました。「CMLの白鳥さん」になってしまうのではないか、心配だったのです。私という人間ではなく、病気がひとり歩きするのでは、と。必要以上に気遣われるのもイヤでした。黙っていたとしても、「治療で髪が薄くなってしまっているのも、変に思われているだろうな」という不安もあったりして――複雑でしたね。
    結局、仲良くなった友だちには打ち明けることにしました。仲良くなってしまえば打ち明けるのも簡単なのですが、そうなる前に伝えるのはやはり考えてしまいますね。そのうち、時を経るとともに、あまり意識せずに気負わず病気について話せるようになりました。

    授業を受けるイメージ

    今はロースクールも無事に卒業し、法曹の資格取得に向けて勉強中です。シンポジウムで自分の闘病体験のことを話すなど、ボランティア活動もしています。
    私は今ではそれなりに元気に過ごすことができていますが、患者仲間の中には、合併症などによって生き方を制限されている人もいます。病気は、それ自体が理不尽なものです。よく世間では「病気になったことで他人の痛みがわかるようになった」、などと美しく語られることがあるけれど、長すぎる闘病はむしろ人の心を荒ませたりもするし、決してきれいごとと片付けられる話ではありません。一番輝いていられるはずの20代、30代に、闘病生活を強いられ、そのころ目指していたことや夢をあきらめなければならなかったことに対しては、とてつもない悲しさと、むなしさを感じざるを得ません。
    病気という残酷な現実を生きている患者にとって、「あなたは恵まれているほうだ」「もっと前向きに頑張って」といった言葉は、ときにその人の心を傷つけ、病に立ち向かう気力を奪うこともあります。患者は、常にその苦しみと闘っているのです。病気になったとたんに「患者」という生き物になるわけではありません。健康な人と同じように夢もあれば、希望もあります。患者だって一人の人間として、希望をもって生きることができる社会であってほしいと願っています。
    今でこそ分子標的治療薬が登場し、骨髄移植のサポート体制も整いましたが、過去の患者さんの苦しい歴史の積み重ねがあったからこそ、ということを忘れないでいてほしいと思います。
    20年以上、CMLと向き合ってきた私ですが、生きる上での希望は決して失っていません。もちろん、「強く願えばどんな夢も必ずかなう」といった甘い願望ではありません。自分なりにつかんだ希望です。それもこれも家族や友人、医療関係者の皆さんが私をつねに支え続けてくれたおかげだと思っています。
    私がそうしてもらったように、一人でも多くのCMLの患者さんが理解、サポートしてもらえたら、と願ってやみません。

    家族や友人、医療関係者の皆さんが支えているイメージ

    フランスで悩みに悩んで選んだ思い出の靴

    この靴は紐を足に巻くところ、それに高いヒールが気に入っています。大切に箱に入れ、靴箱の特別な場所にしまってあるのですが、ずっと履く機会がありませんでした。薬の副作用で足の甲がむくむことが多かったからです。
    ちょうど分子標的治療薬を服用し始めた頃、十数年前でしょうか、患者仲間の友達と、当時父が在留していたフランスを旅行したときに買いました。
    ちょうど夏のバーゲンシーズンでした。気に入った靴が2足あって、どちらにすべきかさんざん迷って……滞在期間の短い友人の貴重な時間を奪ってしまいました。
    あの旅行中は、他にも、私が財布を盗まれたせいで警察に行く羽目になるなど、彼女には色々と迷惑をかけました。「この辺はスリが多いから気を付けてね」なんて、すっかりパリ通気取りで彼女に注意していたのに。ちょっと険悪なムードが漂いました。今となっては笑い話ですね。
    骨髄移植のドナーが見つからず、苦労していた彼女ですが、すっかり元気になって、今はニューヨークで暮らしています。
    実はその彼女が今一時帰国していて、明日久しぶりにゆっくり会うのですが、とても楽しみです。
    この靴で行こうかしら。久しぶりに履いてみたら、甲がすぽっときれいに入ったんです。むくみがあの頃よりは取れたんですね。彼女、覚えていてくれるかな。あのときのことを思い出して、また喧嘩になったりして(笑)。

    フランスで悩みに悩んで選んだ思い出の靴