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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数約6年のK.T.さんの体験記。分子標的治療薬で治療を開始したものの、副作用で続けられず、治療薬を2度変更。現在は3つめの分子標的治療薬で分子遺伝学的に深い奏効(DMR)を目指している。治療薬の変更を余儀なくされながらも、CML治療とどう向き合い、治療や検査、薬の副作用、生活や仕事の不安をどのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

K.T. さん

K.T. さん (38歳)

CML発症後年数:約6年
分子標的治療薬で治療を開始したものの、副作用で続けられず治験薬へ変更、その薬も続けられず新たに発売された薬剤へ変更と、2度の分子標的治療薬変更を余儀なくされた。現在は3つめの分子標的治療薬で分子遺伝学的に深い奏効(DMR)を目指している。
(2012年8月取材)

取材者より

職業柄、発症前から白血病の知識はお持ちだったというK.Tさん。
分子標的治療薬のこともご存じで、だからこそ薬が連続して効かなかった時のショックは大きかっただろうと思いますが、当時のことを「辛かった」などとはあまりおっしゃらず、淡々と話されるのが印象的でした。
CML患者さんが、服薬しながらハードな槍ヶ岳登山にチャレンジできるなんて、とCML治療の進歩も感じさせられるインタビューでした。

富士登山をした時に、体の異変を感じていた

私がCMLと診断されたのは、2007年8月、33歳の時でした。会社の健康診断で血液検査に異常が見つかったのがきっかけです。精密検査を受けるように、と大学病院を紹介されました。
その時の気持ちはあまり覚えていませんが、「もしかしたら白血病かもしれない」と、なんとなく覚悟したような気がします。明らかに異常な数値だったので…。
実は、その1年前の健康診断でも白血球と血小板が多くて、精密検査を受けていました。結果は貧血だったのですが、その後に富士登山へ行った時、普段とは違う強い疲労感があり、何も食べられず、足がひどくむくんだりして、「何か体がおかしいな」と感じていたのです。
「精密検査を受けるように」と言われたことは、会社の上司と妹、当時お付き合いしていた彼(現在の夫)にだけ話しました。両親には、必要以上に心配をかけたくなかったので話しませんでした。
大学病院へ行く時は、妹に付き添ってもらいました。血液検査やマルク(骨髄検査)を受けながら、「もし白血病だったら、両親にどう話したらいいだろう」と考えました。
検査後、結果が出るまでに普通は2週間くらいかかるのですが、私の場合はその日のうちに先生からお話がありました。「たぶんCMLでしょう。でも分子標的治療薬があるから大丈夫ですよ」、「薬代が高いですよ」、「こんな副作用が出ると思いますよ」、「仕事は続けられますよ」など、一通りの説明を受けて、次の診察日に薬が処方されました。記憶している限りでは、ドラマのような重々しい告知は受けていないと思います(笑)。私も分子標的治療薬のことは知っていたので、先生の説明はすごく納得できて、「この薬を飲めば大丈夫ね」という感じで治療を受け始めました。彼も、CMLについて調べた資料をたくさん印刷して持ってきて、「大丈夫だよ」と言ってくれました。

なぜ分子標的治療薬のことを知っていたかというと、職場にいらしたお客様がある日、「主人が白血病になったが、いい薬が出て助かった」と涙ながらに話されるのを聞いたことがあったからです。その時に、分子標的治療薬の存在を知りました。その時は、まさか自分もその薬のお世話になるとは思いませんでしたが…。
白血病は、私にとって縁のある病気なんです。
私は大学進学の時に薬学部を選んだのですが、それは、白血病に興味があった、ということが理由の一つでした。小学生の頃「はだしのゲン」という物語を読んで、たくさんの人が白血病を発症したが治療法がなく亡くなっていった、というお話に「世の中には薬が効かない病気もある」ということに気づいて、ショックを受けたんです。病気になったら、病院へ行けば治してもらえると思っていたけれど、そうではない病気もあるんだ、と。そんなこともあり、薬剤師という仕事があると知った時に「おもしろそうだな」と思って、薬学部を選びました。それから、大学では白血病の研究をしている研究室へ入り、就職した会社では検査のために白血病細胞を培養する仕事に就き…。ですから、CMLと診断された時、不安はあまりなく、どちらかというと「ずっと気になっていた病気になってしまった」という不思議な気持ちで受け止めました。比較的冷静だったと思います。

白血病細胞を培養する仕事のイメージ

信じていた分子標的治療薬が飲めない…

これを飲めばもう大丈夫、と思っていた分子標的治療薬でしたが、私にはダメでした。飲み始めてからすぐに、副作用で血球が減りすぎてしまったのです。先生と相談しながら薬の量を減らしたのですが、血球数は戻りませんでした。薬を休むと戻るのですが、少しでも飲むとまた減ってしまうのです。飲んでは休み、飲んでは休み、を半年くらい続けましたが、治療効果が出ませんでした。
飲み始めた頃は「半年~1年くらいで、約9割の人が細胞遺伝学的効果になる」と聞いていたので、当然自分は9割の中に入るんだろうと思っていました。でも、1割の方に入ってしまったのです。「私はどうなるんだろう」と不安でしたし、「1割の人達はどうしているんだろう」とも思いました。先生から「薬を続けるのはもう無理だから、造血幹細胞移植をしましょう」と切り出され、移植のできる病院へ転院することになりました。当時は、分子標的治療薬がまだ1種類しか発売されていなかったので、その薬が合わない場合、移植に頼るしか方法がなかったのです。

私には白血病の女神様がついている?!

移植の覚悟を決めて転院しましたが、転院先の先生から思いがけない提案がありました。「移植をするなら、治験に参加しませんか?」と。移植のリスクは以前から見聞きしていて、「できればしたくない」という思いが強かったので、巡ってきた幸運を喜び、新薬の治験に参加することにしました。

でも、治験に参加したのもつかの間、全身に薬疹が出て、肝臓の検査値も上がり、さらに血球数まで下がってしまいました。残念ながらその薬も私には合わなかったのです。せっかく治験に参加できたのに、私はその薬も中止せざるを得なくなりました。
もう移植しか選択肢はない、という状況になり、「ああ、だめだ。どうしよう」と落ち込みました。ところが、再び幸運が巡ってきました。今度は新しい分子標的治療薬が承認されたのです。「どうかこの薬は続けられますように」と祈るような思いで飲み始めました。血球数は少し減ったものの、なんとか今回は飲み続けることができそうでした。そして、目に見えて効果が出始めたのです。薬で治療できる希望が出て、本当にホッとしました
私の場合、「もうだめだ」と思うたびに、ふっと新しい薬が目の前に現れました。先生に一度、「あなたには白血病の女神様がついているから大丈夫」と言われたことがあるのですが、自分でもそんな気がしています(笑)。

*薬疹
体内に入った薬に対するアレルギー反応の結果生じる皮膚の症状全般のこと。

仕事は絶対辞められない

なかなか合う治療が見つからず、2度ほど入院もしましたが、幸い仕事は続けることができました。上司には、CMLと診断される前の、精密検査を受けるために休暇を取る段階で状況を伝えました。その後、私はスタッフが多い部門へ異動になったのですが、もしかしたら入院などで長期間休むことになった場合に、他のスタッフでバックアップができるように考慮していただけたのかもしれません。
病気のことは、仕事場の人達にも話しました。みんな、「具合が悪い時は言ってね」とか「無理しないでね」と言ってくれました。でも、一番うれしかったのはそれまでと変わらず普通に接してくれたことでした。治療を始めてから1年くらい、入院したり休んだりで周囲に迷惑をかけてしまいましたが、その後は病気になる前と同じように働いています
最近結婚しましたが、今では「仕事は辞められない」と思っています。薬代、高いですから…(苦笑)。

結婚を考え始めたのは、3つめの分子標的治療薬で効果が出て、心身ともに落ち着いてきてからでした。
夫とはCMLを発症する前からお付き合いをしていて、結婚は「将来そうなってもいいかな」、くらいにしか考えていませんでした。真剣に結婚を考え始めたきっかけは「海外旅行へ行きたい」と思ったことでした。体力が戻って、いろんなことに意欲が出てきたからかもしれません。「長期の休暇を取るには、結婚するのが穏便だよね」という話になり…、結婚することになりました(笑)。海外旅行は、夫の提案でギリシャ・エーゲ海クルーズを楽しんできました。
夫は、一言でいうと「ぐうたらな人」です(笑)。いつも出したものは出しっ放し、開けた所は開けっ放し。私は「これ全部片づけてね」などとよく意地悪を言うんですが、彼は「分かったよ…」と怒ることはありません。良く言えば細かいことを気にしない、大らかな人なんです(笑)。だから、「病気のある人と結婚してもいい」と思ってくれたのかもしれないですね。夫の両親には、私の病気のことを話していなかったので、「どうやって言おうか」と少し悩みましたが、夫から話してもらいました。「子どもはどうするの?」とか、聞かれたみたいですが、休薬したら可能性があることなど説明してくれたようです。
結婚してからは、何かあって少し心配な時、例えば「口内炎ができた」、「青あざがひどくて」といったことをすぐに話せるので安心感があります。ただ、今は本当に普通の生活ができているので、病気の話をすることはほとんどありません。たまに、薬疹がひどかった頃のことを思い出して「あの時、人種が変わったようだったね」とか(笑)、その程度です。

槍ヶ岳登山

この夏、夫婦で槍ヶ岳登山にチャレンジしました

CMLになってから、やりたいことは体調と時期をみながら、一度はやってみることにしています。病気になったおかげで「体力をつけなきゃ」と思うようになり、スポーツジムへ行ったり、ジョギング大会に参加したり、薬膳料理教室へ行ったり…。
将来は子どもが欲しいと思っています。患者会で出会った、私と同い年で小さなお子さんが2人いる方は、「子どもが小さいのにCMLになっちゃって大変よ」と言っていたので、子どもがいればまた違う悩みがあるのだろうと思いますが、「子どもを育てるってどんなものかしら?」と興味があります。まずは分子遺伝学的に深い奏効(DMR)を目指して、できるだけ薬を飲み続けることが目標です
CMLになって、普通とは一味違った人生になりました。でも、これはこれで、CMLになったなりの人生を楽しんでいきたい、と思っています。

ジョギングのイメージ

CML診断前に買った登山靴

CML発症前、スポーツはあまりしなかったのですが、登山は好きで、高い山でも年2回ほど登っていました。
「山ガール」が流行する少し前、私が本当のガールだった頃からです(笑)。山から見る景色はすごくきれいですし、ご来光をその日出会った人達と一緒に見て、「うわーっ」と拍手して盛り上がったりするのも楽しくて。
この登山靴は、CMLと診断される前に富士山へ登った時に買ったものです。この靴を初めて履いて富士山へ登った時は、足が痛くてたまらなかったのですが、それは靴のせいではなく病気のせいでした。

CML診断前に買った登山靴

憧れの槍ヶ岳をこの靴で登りました

それから4年後、また登山を楽しむ体力と心の余裕ができたので、低い山から再開し、今年はこの登山靴で、憧れていた槍ヶ岳へ登りました。天気に恵まれ、例年以上に調子良く登れましたが、最後の岩場は恐怖で寿命が縮む思いで…。「もう二度と行くもんか!」と思っています。
山頂では、凧揚げをするのが恒例なんです。「何か人がやっていないことをしたいな」と思って始めたのですが、やってみるといろんな人に写真を撮られて、ちょっといい気になってしまって(笑)。槍ヶ岳にももちろん持って行きました。

槍ヶ岳山頂での凧揚げ

山頂で凧揚げ!

CML発症後年数 5~6年

内田 浩太郎 さん

内田 浩太郎 さん
(CML発症後年数:6年)

順調な治療中の油断(2018年6月取材)

村上 公一 さん

村上 公一 さん
(CML発症後年数:約6年)

「死ぬかもしれない」と思ったら、物事の見え方が変わった(2012年8月取材)

杉原 明 さん

杉原 明 さん
(CML発症後年数:6年)

それまでは健康そのもので、まさに青天の霹靂。(2011年10月取材)