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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数6年の内田浩太郎さんの体験記。当初は不安と体調不良に悩まされたものの、情報を集めて病気に対する理解が深まると徐々に気持ちが落ち着いて不安が少しずつ取り除かれたという。健康診断でCMLが発覚してからどう向き合い、治療や検査、薬の副作用、生活や仕事の不安をどのように乗り越えたのか体験記を紹介したページです。

内田 浩太郎 さん

内田 浩太郎 さん (50歳代)

CML発症後年数:6年
2012年にCMLと診断されるも、翌年には会社の海外事業展開の準備を始め、2年後からシンガポールと日本を往復する日々を送る。この1年ほどは検査データが落ち着いているため、毎日の服薬と3ヵ月に1回の血液検査で治療を続けている。
(2018年6月取材)

※内容は個人の体験に基づく印象や意見であり、すべての方が同様の結果を示すわけではありません。

取材者より

当初はCMLと言われ、相当ショックを受けた、とおっしゃっていた内田浩太郎さんですが、早々に気持ちを切り替えて前を向き、仕事をバリバリこなしていらっしゃる「キレのいいカッコいいビジネスマン」の印象。6年経った今では上手に健康状態をコントロールするためにも、仕事に家庭に趣味に、バランス良く力を配分され充実した日々を送られているように感じました。

健康診断でCML発覚「この先どうなっちゃうのかな…」

2012年、会社の健康診断の翌日、健診を受けた病院から会社に電話がかかってきました。最初に電話を受けたのは総務の担当者だったので「病院から電話なんてどうしたんですか?」「何か、白血球が多い、って…。」といった会話をしたのを覚えています。
病院に行ったら、先生が「これはちょっとウチじゃ手に負えないから」と大学病院を紹介されました。その翌週に大学病院へ行って色々な検査を受け、先生から「可能性として白血病の類のものがいくつか考えられます」という説明を受けました。
当時はまだ白血病について知識もほとんどなく、「白血病」が付いた病名で闘病されていた有名人を知っているくらいで、急性と慢性の違いもよくわかっていませんでした。あとから考えると、その時期は体調が思わしくなく、だるさがあり、少し階段を上がるだけで息切れがし「何だろう? ストレスかな、疲れかな」という状態がずっと続いていました。熱があって近所の病院に行っても、血液検査まではしなかったので「風邪かな?」くらいに思っていました。
大学病院での検査結果は妻と一緒に聞きに行きました。検査のときに「可能性として…」とは言われていましたが、実際に「慢性骨髄性白血病(CML)」と診断されると、月並みですけれど、やはりショックでしたね。妻は「ああ、やっぱり」という感じもあったと思うのですが、私はそれまで入院するほど大きな病気を経験したこともないし、当時娘がまだ2歳で、その心配もあって「この先どうなっちゃうのかな?」とたまらず取り乱した感じもありました
私が働く会社は2006年に創業し、その頃ちょうど株式を公開する準備に入っていました。確定診断が出た日は、もう心身ともに会社に行ける状態ではなくなっていたので、他の役員メンバーに来てもらい、そこで病気の報告―主治医は仕事を続けることは可能だと言っているけれど、ちょっと今後どうなるかわからない、という話をしました。メンバーからは「とにかく早く治して、また一緒に頑張りましょう」という言葉をもらい、少しホッとした記憶があります

診断直後からしばらくは、本当にショックで「先がどうなるのかわからない」不安に押しつぶされそうでした。先生から、色々な治療方法の説明はあったのですが、頭の中は「慢性がいつ急性転化してしまうのか」という不安や、骨髄移植のことや、血が止まらなくなるイメージが浮かんで、とにかく悪いことばかり考えていました。
薬が処方されてからも、服薬するたびにCMLだということが毎回意識づけられて、「病気」であることを忘れることができませんでした。それに最初は副作用がありました。「飲まなきゃ、飲まなきゃ」という心理的なものもあったのでしょうけれど、当時は、服薬してからしばらくすると、足がつったり、気持ちが悪くなったりすることが時々ありました。夜眠れないこともあり、その影響か、朝だるさを感じて仕事を休むこともありました。体がだるいと何もやる気がなくなり、会社も行きたくない、家も出たくないという状態になります。ただ、家にいてもリラックスしたり、眠れるわけでもないので、それはそれでまた辛いんですね。
また、特に骨髄穿刺(マルク)の負担は大きかったです。最初は3ヵ月に1回、それから半年に1回になりましたが、朝病院へ行って検査がお昼過ぎに終わると、もうだるくなり、会社に行って仕事をする気力はなくなります。職場へ行ったとしても体調が悪く、CMLで通院していることを知らない人に「どうしたんですか?」などと聞かれると、またそれを説明するのも難しくて…。かといって、急に「今日は体調が悪いから休むわ」と言うのも心苦しい感じになりますから、検査の前はとても憂鬱でした。
当時はちょっとした体調不良の度に、「これは風邪なのか何なのか」と恐くなってすぐに病院に電話をかけたりもしていました。もしかしたら、少しイライラして短気になり、家族には迷惑をかけていたかもしれないですね。診断から1年弱は、今後の人生への不安と、治療や体調不良で不安定な感じが続きました。

不安なイメージ

CMLと診断され不安を抱えながらも、先生からいただいた小冊子とインターネットを中心にCMLの情報を集めていきました。薬に関連する情報は、英語の論文から探しました。CMLの患者さんやそのご家族が書いているようなブログもいくつか読みました。2回ほど患者会のイベントに行き、他の方の話を伺ったりもしました。また、この病気は染色体異常に関係があるということから、遺伝子にも興味をもち、CMLだけではなく、様々な先端の遺伝子治療の本をかなり読み、学びを深めたと思います。
すると、病気に対する理解もだいぶ深まり、元来楽観派ということもあって「まぁ、しようがない」と、徐々に気持ちが落ち着いてきて、当初の不安が少しずつ取り除かれていきました。同時に、その頃から「タイミングとしては逆についているな」と思い始めました。遺伝子治療も進んで、最初から比較的新しい薬を投与されているわけですから、ラッキーだったのかなと思います。
気持ちに変化が出始めたのは、診断から1年経っていない頃だと思います。ちょうど仕事も目標があって、頑張ろうという時期でもあったので、心と体が何となくピシッとしてきたのだと思います。そして、2013年11月にはシンガポールに現地法人を設立し、14年4月からシンガポールに出向しています。月に1回は検査と薬のために日本に戻ってくる条件で、2013年の4月くらいには「行く」ことを決断して、7月くらいからは現地に行き始めていました。たぶん「行けるな」「大丈夫じゃないかな」という感じがあったのだと思います。

シンガポールへ出向するイメージ

順調な治療中の油断

治療は順調で、毎月検査で通院していましたが、白血球の状態は一度も悪化することなく、数値もトントンと下がっていきました。辛かったマルクも、この1年半くらいで先生から「ちょっとやめてみようか」というお話をいただき、現在は血液検査と薬の処方のみで3ヵ月に1回の通院になりました。今は、たまに服薬を忘れそうになるときがあるくらい(笑)、CMLに馴染んでいる感じはあります。
ところが去年、こんなこともありました。出張で韓国に行くことがあったのですが、向こうで風邪をひいてしまった際に、仕事もあり熱を下げる目的で現地の薬を飲んだのです。そうしたら、逆に熱が上がってしまって下がらない。我慢して3日間韓国で過ごした後、帰国してすぐ病院に行ったら、その薬は私が飲んでいるCMLの薬との飲み合わせが悪い、つまり私が飲んではいけない薬だったことがわかりました。そのときは2週間くらいCMLの薬をやめ、上がっていた肝臓の数値を下げる薬を処方してもらって、ピタッと熱が下がりましたが、先生にはとても怒られました。
それまでは、薬に影響するグレープフルーツは食べないとか、健康状態を良く保つために色々なことに気をつけていたのですが、診断から4、5年経ったところで、つい油断してしまったんでしょうね。そしてそれはまた「ちゃんとしなきゃ」という契機になりました

CMLになって大きな支えとなってくれているのは家族、やはり妻だと思います。診断時を含めた最初の頃や、去年韓国で体調を崩して帰国したときには具合の悪そうな私に付き添って一緒に病院に行ってくれました。それから、10歳になった娘ですね。CMLはわからないけれど、何か病気であるということは理解していて、みんなで一緒に明るく過ごせているので、私にとっては頼もしい家族です
今は、だるかったり、気持ちが前にいかないときは、無理をしない、極力、身体の状態に素直になるということを意識しています。結果的には、そのほうが悪い状態を引っ張らずに回復も早いように思います。例えば、辛いときは1日きちんと休んで、次の日から仕事に行く、仕事はちょっと途中で手を休めるようにする、時間を見つけてスポーツでスッキリする、などを心がけています。
スポーツは大学時代からずっとサーフィンをやっているのですが、CMLがわかった後、様子をみながら再開して、今は以前にも増して積極的にやるようになりました。夏は家族で海へ行って、妻と娘はビーチで遊んで、私はサーフィンをやり、みんなでお昼を食べて、という過ごし方もします。
ランニングも気持ちがいいので、もやもやしているなら一度体を動かし走ります。それも無理せず、自分の身体と相談しながら自宅の周りを10キロくらいです。
そういう意味では、ここ3年くらい特に身体の状態を意識するようになりました。今は週に3回走っていますし、可能な限り良いコンディションを保とうと、歯科医院にもしっかり行くようになって、全部きれいに治療しました。病気になる前に比べて身体への意識は常にある感じですかね。

家族で海へ行くイメージ

娘のお気に入りの草履 ―父である私のCMLとともに―

これは「ミサトっ子」という子どもが履く草履なんです。うちの子は2歳くらいから妻と一緒に、山の中を裸足で歩き回って遊んだり、色々な体験をしたりするサークルに入っていたのですが、その活動の中で履いていたのがこの草履でした。ちょうど私がCMLと診断された頃です。
娘は10歳になった今でも好きで履いていて、成長とともに買い替えて、これはもう何代目かになります。畳のようなものなので、履いていくうちにこれがボロボロになるんです。でも、そのボロボロになる感じが、またいいんですよね。
小さいときから裸足で山を登ったり、歩いていたりしていたからなのか、彼女は冬でもすぐ裸足になりたがって、とても元気です。この草履とともに、このまま元気にすくすく育ってくれたらな、と思います。

娘のお気に入りの草履

CML発症後年数 5~6年

村上 公一 さん

村上 公一 さん
(CML発症後年数:約6年)

「死ぬかもしれない」と思ったら、物事の見え方が変わった(2012年8月取材)

K.T. さん

K.T. さん
(CML発症後年数:約6年)

富士登山をした時に、体の異変を感じていた(2012年8月取材)

杉原 明 さん

杉原 明 さん
(CML発症後年数:6年)

それまでは健康そのもので、まさに青天の霹靂。(2011年10月取材)